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たん、たん、たんたん

木製のまな板を叩く包丁の音。

 

ざくざくざくと手許で切り刻まれていくまあるい塊。

 

頭の隣で、紙が擦れる音。

 

「…の原因は、アリルプロピオンが含まれているからである。アリルプロピオンとは、」

 

切り刻まれていく白い野菜には眼もくれず、手にもった書物のページを捲る俺の弟。
情報を読み取り、要約して滑らかな口調で声に出す。
頭上から降ってくる柔らかな声。
こんな状況でも、その声に聞き入りそうになる。
どんな時でも、弟の声は耳に心地が良い。

 

「ネギ、タマネギ、ラッキョウ、ニンニクなど、ネギ属の植物には硫化アリルをはじめとする、アリル其を有する硫黄化合物が多く含まれている。硫化アリルは独特の刺激臭や辛味のもととなっている成分。殺菌作用がある。タマネギを切った時に眼が沁みるのは、表面から硫化アリルが気化し眼・鼻の粘膜を刺激する為である。

 …………どう?兄さん。」

 

優しい問いかけに、俺はくしゃりと顔を歪めて、 盛大に鼻をすすりあげた。

 

「無理っ!!」
「やっぱりねぇ…」
「あーもう!眼が痛ぇ!!」

 

堪えきれなくなって、俺は左足でガツン、とカウンターに蹴りを入れた。 

 

「いくらなんでもコレばっかりはね…理論を理解しても解決しないと思うよ、兄さん。」

 

袖を捲り上げているので、肩あたりで眼をごしごしと擦って無駄な努力をしてみる。
たっぷりと気化した刺激物を吸収した粘膜はさっきからじわじわ涙を滲ませている。

 

「無理。ダメ。全然駄目。実験失敗。」
「残念でした。」

 

たまねぎ3個を刻めと命じられた俺は1個目にしてはやくも挫折しかけていた。

もう無理です目が痛い。
っていうか前が見えません。

 

「どうにかなんねーの、これ。」
「えーっと…切るまえにたまねぎを冷やす・水に浸す…目を覆う、鼻を摘む。切ったたまねぎをひとかけら口に咥える。」
「目隠ししながら切れるかよ。」
「眼鏡みたいなのをかけろっていってるんだと思うよ?」
「持ってねぇし。」
「じゃあひとかけら口に咥える。」 
「何でそれが効くんだよ。」
「試してみれば?」
「嫌。」
「じゃあ我慢して?」
「ってか交代して。」
「嫌。」
「何でだよ!」

 

もはや目を開けていることも叶わなくて、細く開いた隙間からアルを睨みつける。 
包丁を握った左手はとっくに動きを止めている。

 

「だって約束だろ。今日は兄さんが作るって。ずっとサボってたんだから今日くらいいいでしょ。それに、」

 

バタン、と本を俺の頭の傍で閉じながら弟が続ける。
…ちくしょう弟のくせに俺よりでかくなりやがって、
なんて怒りがうっすらとタマネギから弟へと移り始める。

 

「シチューなら作るって云ったのも兄さんだよ。」

 

それにしたってタマネギを切るのがこんな大変だなんてきいてない!
だんっ、と白い悪魔に包丁を当てると、隣から叱責が飛んできた。

 

「ちょっと!ちゃんとみじん切りにしてよ。均等に切らないと、」
「火が通ればおんなじだろ!大体こんな細かく切る必要がどこに、」
「ぶつ切りのタマネギではホワイトシチューは作れませんっ!作り方くらい読んでおいてよ!」
「料理の本なんか読むか!」
「錬金術師としてどうなんだよ、その発言…」
「は、そうだ!錬金術!!」

 

アルの一言で瞬時に脳裏に式が流れ込んできた。
天才錬金術師の俺様なら生の材料を並べて、パンッ、と両手を打ち合わせれば、

 

「師匠に怒られるよ。」

 

ざらざらざらざらざーっ

 

せっかく組み立てて積み上げられた構築式と理論が、がっくりとうなだれた俺の頭の中で崩れて散らばった。

 

「だーよなぁ。」

 

さらに脳内で、眉間に皺を寄せた師匠が便所スリッパをはいた足で床に散らばった理論を蹴散らかし始めた。
すげー想像できて笑えない。

 

「あーぁ。仮にもお兄様を泣かせるなんてお前はホント酷い弟だなぁ。」
「泣かせてるのは僕じゃないでしょ。」
「いんや、俺がこうして泣く泣くたまねぎを刻んでいるのはお前とたまねぎと俺との因果関係が…っつ」

 

ぷつっ、と指の腹にむず痒い感覚。
器用なことに俺は生身の指をまな板と包丁の間に挟んでしまったらしい。

 

「ありゃ。」
「ありゃ、じゃないよバカ!余所見してるからだよ!」
「バカとはなんだ!」
「バカだからバカっていってんだ!くだらないこと云ってるから、
「さっきと云ってること違うじゃねーか!」
「どっちも同じこと…っていうか血!血!まな板に落ちてるから!!」

 

アルは俺の手首を掴むと、シンクの蛇口を捻った。
滲んでいた血が透明な水に押し流されて真っ直ぐな傷口が現れた。

 

「…結構深いね…痛くないの?」
「どっちかっつーと痒い。アレだな、鋭いもんで切ると後から痛みがくるってやつ?」 
「のんきにいわないでよ自分のことだろ」

 

水を止めて、俺の指をためつ眇めつアルが云う。

…ばかだなぁ。

今までにこれよりももっともっと酷い、ずっとずっと痛い思いをしてきたじゃねぇか。
それこそ、眼も当てられないような傷だって。
今更これくらいの傷、どうってことないだろう?

そう云うと、アルはきゅっ、と眉間に皺を寄せた。

 

おや。

 

コレはもしや俗にいう怒ってますの顔ですか? 


「馬鹿。馬鹿兄。ホント、馬鹿だね。」
「おま…三回も云う事、」
「足りないくらいだよっ。ホント…信じらんない。嫌い。」
「嫌いまで云うか!?」
「今までがそうだったからこそだろっ。もう…酷い怪我も、酷いめにも会わなくていいんだ、から」 

 

どんな小さな怪我だってもうして欲しくない、
と ぽつりと云ったアルは最後にまた馬鹿兄、と呟いた。
怒っています、だった顔と声は尻すぼみにしぼんでいき、今は眼をそらして軽く俯いている。
今はむしろ、そう、恥ずかしいですの顔。

 

なんていうか…可愛いなぁとか思ってしまう。

「…っふ…ふふ、」
「~~~っ、今笑ったね!?」
「は、いや、ははっ悪ぃ」
「思ってないだろ!?いーよ、どうせ甘いよ!今更だよ!」
「自分で云うなよ。」
「うるさいよっ!」
「そーかそーかぁ。なんっつーか、俺大事にされてんだなー」

 

ふざけてそういうと、アルはぐっと詰まってさらに顔を赤くした。
珍しい。ホント珍しい。

けらけらと笑っていると、アルは顔を背けて無理やり話を変えた。

 

「っもう、ほら、続きするよ。このままじゃいつまでたっても晩御飯が出来ないよ。」
「あーそういやあそうだな…っと、アル、服に血がつくぞ」

 

水の圧力が無くなっていつの間にか再び溢れてきた血がたらりと指の根元まで垂れていた。
手首を掴んだままのアルに離すよう眼で促したのだが、

 

「おい…あ、こら…!」

 

俺が止めるのも聞かずに、アルは身をかがめると俺の指をぱくりと咥えた。
途端に動きが止まる弟。

 


あーぁ。

 


「…弟よ。たまねぎ味の兄の指は美味いか?」
「…判断しかねます。」
「だろうなぁ。」

水で流したとはいえ、まだ俺の指にはたっぷりとたまねぎ臭が染み付いているだろう。
今頃まとわりついた硫化アリルがアルの眼をちくちくと刺激しているに違いない。
それでも指を離さないのは、果たして意地なのかなんなのか。

 

「まったく…ばかだなぁ」
「うぅ…眼に滲みる」
「愛が?」
「…馬鹿。」

 

くすくす笑っていると、傷口に歯を当てられた。
なんて酷いやつだ。
甘い痛みに喜んでる俺も相当酷いけど。

 

ぎゅっと両腕で身体を包み込まれて、シンクに凭れ掛かる。
しゅるりとエプロンが解かれるのを聞きながら、タマネギって酸化したっけなーとぼんやり考えた。 

 

​・

「…あれ。そういえばお前いつも玉葱料理する時どうしてんの?」
「…えっ?」
「…お前が玉葱切ってて涙流してんのみたことねぇんだけど?」
「えっと……斜め45度を意識して距離を少し取って切り終わるまで口で息を、」
「……。」
「…や、やだなぁ、わざとじゃないよ。ホント、忘れてただけだってごめん兄さん
 ホントごめん謝るからお願いだから包丁向けないで」

目に滲みる愛と化合物

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