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「人間には無くてはならない能力がいくつかある。

 そのうちで一番大事だと思う能力ってなんだと思う?」

ちらちらと橙の光を顔に受けながら、兄は唐突にその質問は投げかけてきた。

首を横に振ると、彼は滑らかな口調で論じてみせた。

僕はそれを聞きながら、焚き火の上でお湯を沸かして、お茶を二人分淹れた。

自分の分を両手に持ちながら、腰を下ろす。

「兄さん、そこは“だから人というのは生きていけるんだ”っていうところでしょ。」

最初の話とずれるじゃないか。

と指摘すると、ずれるもんか、と返された。

「無くてはならない、といっただけで“生きていくのに、”とは云ってない。

 大体、」

何処に眼ついてんだよお前は、

と皮肉気に口をゆがめながら、兄さんはつけたした。

携帯用のアルミカップに口をつけながら、僕たちが今日の野宿することになった場所を眺める。

ほとんど炭と化した建物。

ごっそりと抉れた地面。

いまだ漂う、焦げ臭い匂い。

 

目前に広がるのは、何らかの原因で戦火に巻き込まれた小さな町の、死骸。

 

宿泊予定の小さなその町は地図から消えたところだった。

 

陽もとうに暮れていて、引き返すにも遅すぎて、

仕方なく町から少し離れた丘に荷物を下ろして火を起こした。

「兄さんの的確な練成のおかげで、幸い眼は正しいところについています。」

「おう。感謝しやがれ。」

「してるよ。」

高いところから見下ろすと、町の状態がよくわかる。

「…何が、あったんだろうね。」

思わず呟くと、兄さんは肩をすくめた。

「さぁな。…もしかしたらただの火事かもしれない。

 どこかに攻め込まれたのかもしれない。

 あるいは、身から出た錆なのかもしれない。

 今となってはもう誰にも判らない。…判ったとしても、いずれ忘れられる。」

適応と忘却。

2つの能力の話をしてくれた兄さんは、コートも脱がずに目の前の火をじっと見つめている。

「…知ってる?忘れることのできない人は、短命なんだって。」

「へぇ?」

彼は片眉を上げて、反応を示す。

その様子から知らないようだったので、最近読んだ記事を記憶の引き出しから引っ張り出してくる。

 

「幼い頃に頭に傷を受けて、その影響で忘れることができなくなった人がいたんだって。」

 

噂を聞きつけて、その人のもとに、沢山の人が集まった。

調べてみると、確かに傷を受けてからの記憶が全部あったし、一度読んだ本の内容は忘れない。

それどころか彼は一字一句正確に諳んじてみせた。

そこで一部の人たちから、彼を元に人工的にそういう人を創ろうという計画があがった。

 

「…って、なーんかどこかで聞いたようなハナシになってきてねぇか?

 つーかお前、その“記事”とやらはどういう手段で手に入れたわけ?」

「普通に。

 言葉でお願いして。

 書類に兄さんの名前で署名して。」

「コラ。」

飛んできた枝を身体を左に傾けて避ける。

どうせまたどんなオンナでも落ちるって噂の笑顔をつかったんだろ、なんて罵倒付き。

失礼な。人をタラシみたいに。

「まぁそれはおいといて。

 お金も時間も沢山かけて、まずはデータ採取にとりかかった。

 そして、グループは絶対的な記憶を持つ男の子を作るのに成功した。」

「へぇ~。成功してしまいましたか。」

「してしまいました。

 グループは大喜び。早速その子からもデータを取って、どんなことに利用できるか研究し始めた。

 ところが、男の子は5年も経たないうちに死んでしまったんだ。」

話の展開に予想がついたのか、兄さんがニヤニヤと嬉しそうな顔をする。

人の失敗を嬉しそうな顔で聞くなんて酷い人だ。

「研究グループは慌ててデータ元の男のところへ走った。

 ところが、その男もとっくの昔に亡くなっていた。」

「あーらら。道塞がれちゃったな。殺されたか?」

笑みを浮かべ続ける兄さんに、僕は首を左右に振って答える。

「ううん。押しつぶされたんだって。」

「何に。」

「自分の、記憶に。」

それまで楽しそうにしていた口許がぴくりと動いた。

左手が、右肩を握り締めるのが見えた。

「はぁん…そりゃまた…ぞっとしねぇな。」

「でしょ。」

諦めきれなかった研究者達は、驚異的な記憶を持つ人を探し続ける。

しかし、常人外れの記憶力をみせる人たちはことごとく短命で、多くの場合狂い死んでしまうことがわかった。

 

「そこで、報告書には、忘れることの出来ない人は蓄積していく記憶の量に耐え切れずに崩壊してしまう。と結論付けられた。

それで研究は打ち切り。」

「ふぅん…」

 

兄さんは半分くらい思考に沈みかけているのか、少し遠い声で頷いた。

 

「だから、兄さんが話した適応と忘却の話も、当たってるんだと思う。

 ただ、脳の為というよりも、その人の心の為って気がするな。」

いつまでもいつまでも、忘れることの出来ない思い出。

それに耐え切れないのは、脳じゃなくて心の方だろう。

どんなに身体を鍛えても、どんなに意思を強く強く持とうとしても。

精神は、心は脆い時がある。

それはニンゲンであることの証でもあると、僕は思う。

「心、ね…。ってか、脳も心も同じだろ。」

「僕にとっては違うもの。」

「あそ。考えたことなかったな、そんなの。」

「僕は沢山考えたよ。この資料を読んだときすごく心配になったもん。」

「心配?」

 

ふと兄さんが顔を上げて僕を見る。

母のために片脚を亡くし、僕のために右腕を亡くした人。

彼は、僕の身体が戻った今尚、その身体で居続けている。

何のために?

誰のために?

僕は時々無性に心配になる。


 

実はこの人は、忘却を欠如した人なんじゃないだろうかって。


 

「兄さんがね。」

 

短くそういうと、兄さんはしばし呆けたような顔をしてから、徐々に嫌そうな顔をした。

流石兄さん。今の言葉だけでわかったらしい。

 

「頭に大怪我を負った覚えはないんですけどねぇ。」

「無自覚かもよ?それに先天的な可能性も捨てきれないし。」

「ホンキで云ってんの、お前?」

「兄さんは確かに天才だし、小さい頃のこともほとんど覚えてるし。

 一度読んだ本の内容は記憶してるし。

 何より…必要以上に記憶に囚われる傾向にあるし。」

最後の言葉を言い切る前に、今度はアルミカップが飛んできた。

まだ熱い紅茶を頭から被りたくなかったので、僕はまた身体を傾けてそれを避ける。

後ろでばしゃっ、と紅茶が土に広がり、カランカランとアルミが跳ねる音が響いた。

 

「ア~ル~?てめぇいい度胸だな、あぁ?」

 

兄さんがざくざくと土を蹴って僕の胸倉を掴みに来る。

 

「本当のことだろ。」

「誰が囚われてるって?」

「だって兄さん機械鎧のままじゃないか。戻す努力だってしてない。」

「っ、その話は終わったことだろ!」

「終わらせられるわけないだろ、僕だけ戻して何で安心しちゃうんだよ!」

「だからってお前にそんなこと云われる筋合いはない!」

だんだんと口論じみてきて、僕はつしばらく口を噤む。

「…違うんだ。云い合いをしたいわけじゃなくて、

 云ったでしょ。心配してるんだよ。」

「…っ」

服を掴んでいる右手に手を添えると、兄さんは一歩足を退いた。

ひんやりとした機械鎧の手を取って、彼を見上げる。

 

「…何度いっても無駄なんだね。」

「…おれは、もう充分…報われたと思ってる。」

「けど、」

「お前が戻ってきてくれたことで、もう充分なんだよ。」

 

そういう兄さんの顔は、今にも泣きそうに歪んでいる。

まるでそれ以上のことを望めば、また自分の手から全てがすり抜けでもするかのように。

 

実際そう思っているのだろう。

 

いつまでも、いつまでも

犯した罪を右腕と左脚に巻き付けて、

罪人の自分には、多くを望んではいけない、と。

「兄さんは、本当…仕方のない人だね?」

「は……っ!?」

 

僕は彼を見上げて苦笑してみせると、彼の右腕を引っ張って僕の立てた膝の間に引き下ろした。

慌てた兄さんは咄嗟に左手で僕の肩を掴んで、膝をつくに留める。

 

「…何しやがる。」

「んー?ココに座ってもらおうと思って。」

 

いいながらくるりと彼の身体を反転させて、僕の胸に背を預けるように座らせた。

 

「何故そんなことをしないといけませんか。」

 

怒りはするけど、されるがままなんだね?

思わず笑いがこみ上げて、慌ててそれを噛み殺す。

 

「兄さんを暖めて差し上げようと思って。」

 

せっかくの紅茶も、地面に飲ませてしまったので、彼の身体はいまだ冷えたまま。

 

「今夜は冷え込むからね。」

 

陽がくれてからいままで、冬の乾いた冷たさを吸収している右肩と左脚は、きっと突き刺すように冷たい。

僕が何を云いたいのかわかっているだろう兄さんは、それでも抗いはせずに、大人しく僕の腕の中に収まった。

「…戻すつもりは、ないから、な。」

「まだ云うの?」

「お前が始めたんだろっ。」

「それもそうですが。」

強情な彼の後ろ頭に口接けながら、僕はくすりと笑いを漏らした。

「いいよ、もう。

 一生かけて兄さんを説得してやる。」

教えてあげるよ。

変なところで不器用な兄さんに、

罪の忘れ方を。

既に貴方を赦している人は、沢山いるんだよ。

貴方に幸せになってほしいと、願う人は決して少なくないんだよ。

 

パチッ、と目の前のオレンジが乾いた音を立てた。

 

「…んなことに一生かけんじゃねーよ。」

その声が、苦笑を含んでいたので、僕は少し嬉しくなる。

「じゃあ早く説得されてください。」

そういって、暖かくなり始めた小さな身体を抱きしめた。





 

Forgotten to Forget

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